京都生まれの小川憲一豊実とアルゼンチン生まれで育ちの日系二世の私

京都市、みやびの街、生まれで育ちの小川憲一豊実(おがわけんいちほうじつ)とアルゼンチンのジャングル生まれ、育ちの日系二世の私たちは来年で結婚50年を迎えます
えかきは60年以上、ひたむきに絵と向き合ってきました
頑固だけれどまっすぐな性格
SNSも活用しながら、自分の思いを伝えています
無口だった私を気に入って結婚しました
昔は無口だった私も、今では負けずに言いたいことを言うように変貌しました
このブログでは、そんな私たちの日々や、絵が誰かの心に届くまでのあれこれを、妻の目線でそっと綴っています
もっと多くの方に、夫の絵と出会ってほしいと願いながら
えかきは結婚するまではそれなりにいろいろありました
1947年5月3日に京都市で生まれ育ちました

自画像 小川憲一豊実描く 油彩3歳の頃の自分
母親は太秦生まれの京美人の文子さん、父親は豊さん、一目ぼれして結婚したようです
父の生まれ育ちは千葉県成田市
滋賀県大津市所属の特攻隊員、一日戦争が続いていれば小川家の長男はこの世に存在しなかった

豊文(ほうぶん)ブティックをされていた
名前はお父様の豊とお母様の文子の文をとってブティック豊文
憲坊と呼ばれてたヤンチャな彼の家は乾隆小学校の二軒隣で、近いのに毎日遅刻してたそう
授業が終わると、ランドセルを投げ捨てて、野球に夢中で校庭で暗くなるまで遊び、将来は野球選手になると夢見てた
低学年の担任の先生に秋の景色の絵を、燃えているようでしょうと上に絵を掲げながら皆に見せたことが少年の夢はいつの間にか違う方向へと進みました

長男の憲坊と次男の英坊
中学校は家からすぐ近くの嘉楽へ、視力が悪くあのスタイルの眼鏡ではもてそうになかったと想像する
本人は好きな彼女が進学する予定の高校へは行けなくて、いじけて親友と日吉ヶ丘美術高校を受験した
嘉楽中から三人受験して、みんな受かった、西洋画美術コ-スへ
受験には勉強ができるより絵が上手だったから受かったと自慢する
それは楽しい3年間だったといつも自慢げに話す憲坊ですが、あったことなかった?ことを逸話を投稿すると同級生の一人が嘘を言っちゃあかんと怒ったそうです
怒り返したのはもちろん、「すべて本当にのことを書いていると」
同じ高校、同じ時間を生きても個々の受け止め方で違うのかもしれません
憲坊は自由だと感じていても、お友達の意見はそうではなかったかもしれません

ダルマスト-ブえかきのつまは大好きです
若かれし頃は夢が一杯、憲坊はこのころは小学生の時に夢見た野球選手は持ち続けたのでしょうか?それとも芸術家を夢見てたのでしょうか?
アルゼンチン生まれ、育ちの日系二世の私は1956年8月15日この世に誕生しましたので、夫とは9歳の年の差があります
幼い頃の年の差は結構感じます。絵描きが高校生の時にはつまはやっと小学入学だったでしょうか?
日本から遠く離れた両親が鹿児島から移住した国はアルゼンチン
京都の街とミシオネス州のジャングルでは文化、食生活も違うお互いが理解しあうのは奇跡に近いと思うし、散歩下がって歩くのは私には無理でした
しあわせかふしあわせかお陰様で最近はたびたび議論になる
さてと、えかきのことに戻ります、高校を卒業すると東京芸術大学へ親友と受験
技術で受かったが、勉強の方で落ちた
人はひょんなことで歩道が違う方向へと向かう

自画像
キャンパスに油彩
小川憲一豊実描く
大学は諦めて、父親に内緒で南米へ行くために体力をつけるのに北海道へ行きたかった
大反対され、何を考えてるのだと北海道から本道へ出稼ぎに来られているのにと
えかきの代わりに親友が北海道へ
牧場に住み込み、酪農の仕事を朝とても早くから夜遅くまで、とてもつらかったと今でもぼやく親友、お前のお蔭で苦労したと
幼稚園の頃からの同級生でもあり、親友である
今でも電話がかかってくると二人は子どのように張り合うのでえかきのつまは可笑しくてたまらない
また喧嘩ですか?とちゃちゃをいれる
お酒は何を飲んでいるのだ?瀬戸内の魚は美味しいぞと相手をうらやましがらせる
まぁ~人の悪口ではなく、男は小さいことで議論をするのだ!
親友は京都でえかきは田島、二人とも気が向いたら長い時間喋る、つまはうらやましいのである
でもえかきは気が向かないともっぱらつまにまかせるが、私だって人間なので話したくないときもある
ある日電話が通じてないと思い議論を始めた絵描きと私、あなたの親友なのになぜ私が話さないといけないの?といろいろ言った
全部聞いてた絵描きの親友、罰悪そうに少し話電話を切ったのでした
えかきのつまは気になり何日が後に電話した、笑ってごまかされた
行ったり来たりで分かりにくいと思いますが、20歳の京男はアルゼンチンへ移住すると決めた
父親に伝えたら、北海道行きを反対しなければよかったとなげいたそう
多分そうはならなかったと思う、どっちみち行ったのでは?
ほとんどの人があの頃はヨ-ロッパ-に憧れ、パリやスペイン、イタリアと行ったが変わり者のこの人はペル―、クスコの景色を美術雑誌で拝見して恋をした
少し安全な国アルゼンチンへ取り合えず行くことに
移住者としては京都人は、農業経験がない為認めていただけなくて、旅行者として取り合えず行った
移住者は国が旅費を出すがアルバイトで貯めたお金を船代に払ったら、残ったのが約30ドルだけ
飯盒をぶら下げ、画材を詰め込んだリュックサックを背負った彼が、三か月の船の旅は両親だった、40日間を楽しんだ、一生思い出に残っているのだそう
若かったから行けたと振り返って思うのだそう
イノシシ歳の人たちは頑固の割には怖がりが多い、猿歳の私は怖いもの知らずで生きてきました、これからは未知ですが...
船の旅、私と知り合うまではまだ先のこと、恋愛もあって、三番目の彼女と結婚が私
お見合いも経験すればよかったと図々しくぼやく小川憲一豊実(おがわけんいちほうじつ)です
小川(松ノ下)マリアイネス拝

飼っていた犬、ベル
可愛いかった
和紙に水彩
小川憲一豊実描く
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