誰も選ばなかったアルゼンチンへ|画家・小川憲一の15年に及ぶ南米放浪記

誰も選ばなかったアルゼンチンへ
多くの若い画家たちがヨーロッパへ向かう時代。
そんな中、えかき(主人)は、
行き先はアルゼンチン。
周囲が驚くような決断でしたが、本人に迷いはなかったそうです。
+
横浜港で起きた下駄騒動
横浜港から船に乗る日。
いつものように下駄を履いて乗船しようとすると、
「船では音が響くので、下駄はご遠慮ください。」
と丁寧にお願いされたそうです。
そのうえ、自分の革靴まで貸してくださったとか。
下駄は目的地へ着くまで預かってもらいました。
リュックサックに普段着、そして革靴。
その姿を想像すると、今でも思わず笑ってしまいます。

二か月の船旅
アルゼンチンまでの船旅は約二か月。
主人にとっては退屈どころか、とても楽しい毎日だったそうです。
若さとは、不安よりも期待の方がずっと大きいのでしょう。

南米を15年間放浪しながら絵を描く
ブエノスアイレスへ着いた頃の所持金は、ほんのわずか。
美術館を巡り、食事をし、宿代を払うと、
それでも不安はなかったと言います。
その後、アルゼンチンだけでなく南米各地を旅しながら、

ペルーで届いた悲しい知らせ
憧れていたペルーで半年ほど暮らしていた頃、
「父危篤」
急いで帰国しようとしましたが、思わぬ出来事が起こります。
役所でパスポートが行方不明になってしまい、
今でも、その出来事は主人の心に深く残っています。
忘れられない父との別れ
ある日、
さらに、めったにしない釣りで釣れた魚の大きな目が、
その後、お父様が亡くなられた知らせが届きました。
主人は、
「父君(トークン)が会いに来たのかもしれない。」
と、今でも静かに話すことがあります。
結局、お父様の最期にも、お葬式にも間に合いませんでした。
そのことは今でも心残りなのでしょう。
戦争を生き延びた父
主人の父は1920年生まれ。
特攻隊として出撃する予定でしたが、
あと数日戦争が長引いていたら、
しかし戦後は結核を患い、50歳という若さで亡くなられました。
戦争を生き延びたことに対して、
「自分だけが生き残ってしまった。」
そんな思いを胸に抱えていたと聞いています。
戦争は、

日本語教師として暮らした日々
ペルーへ行く前には、アルゼンチンのモンテ・
絵には20人しか描かれていません。
一人だけ写っていない「あけみちゃん」は、写真が大嫌いで、
そんな微笑ましい思い出も残っています。

再びアルゼンチンへ
父の死後、日本へ戻り京都で約3年間暮らしました。
その後、移民として再びアルゼンチンへ渡ります。
一度目は二か月の船旅。
二度目は飛行機。
「あっという間だった。」
と主人は笑って話します。
そして私たちは出会った
アルゼンチンで開かれたクリスマスパーティー。
そこで27歳の主人と18歳の私が出会いました。
一年後、結婚。
こうして私たちの人生が始まったのです。
人生には偶然のようで、偶然ではない出会いがあります。
だからこそ、私は思います。
出会いは必然。
でも、別れはいつも突然です。
だから今日という一日を、大切に生きていきたいと思っています。


内部リンク
「両親が1955年に鹿児島からアルゼンチンへ移住した理由|



