1955年、船でアルゼンチンへ渡った両親が私に残してくれた人生

両親が1955年に鹿児島からアルゼンチンへ移住した理由| 私の人生の原点
年を重ねるにつれ、

多分このような感じで祖国を離れたのでは?
⬇この後に
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両親はすでにこの世を旅立ちました。
二人が亡くなってからは、
という気持ちも少しずつ薄れてきて
それでも、私は日本から最も遠い国・アルゼンチンで生まれ育ち、
私の人生は、

鹿児島からアルゼンチンへ
父と母は、鹿児島県霧島山麓の財部町で生まれ育ちました。
父は「もっと大きな農業がしたい」という夢を抱き、
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一方、母は最初から賛成だったわけではありません。
親戚に相談したところ、「ご主人について行きなさい」
当時の夫婦のあり方は、今とは大きく違っていました。
若さゆえに深く考えず、

お兄ちゃん、祖父と
三か月に及ぶ船旅
1955年。
父、母、そして3歳だった長男・優二兄とともに、
アルゼンチンまでは約三か月もの船旅です。
期待に胸を膨らませながらも、不安も大きかったことでしょう。
神戸の移民斡旋所では、
1955年8月15日。
孫との別れを惜しんだ祖父は、出発前夜、
今になって思うのは、「もっと詳しく話を聞いておけばよかった」
もう聞くことのできない話が、たくさんあります。
船の上で見た異文化
航海中、母はひどい船酔いに苦しみ、
一方、幼い優二兄は、
「どうして手で食べるの?」
と無邪気に聞いていたそうです。
子どもの素直な驚きに、思わず微笑んでしまいます。
クーデターの最中に到着

懐かしいブエノスアイレスのタクシーの色
ようやくブエノスアイレス港へ到着した時、
銃声が響く中での上陸。
特に母は、「なんて国へ来てしまったのだろう」
その後、移住者の案内で約1,
現在なら快適な長距離バスがありますが、
新しい生活と突然の悲劇
両親はお茶工場で働き始めました。
翌年の8月15日、私が誕生します。
仕事に追われる毎日で、
空を飛ぶ飛行機を見上げながら、
「お爺ちゃんのところへ連れて行って。」
そう話していたと母から聞きました。
そして1956年11月28日。
忘れることのできない悲劇が起こります。
工場で缶蹴りをして遊んでいた優二兄は、
父は異変に気付き、すぐに機械を止めました。
急いで病院へ向かいましたが、その途中で息を引き取りました。
まだ4歳でした。
一番かわいい盛りでした。
両親が背負った悲しみ
日本の祖父は訃報を聞き、
「なんで外国へやったんだ。」
と畳を叩いて嘆いたそうです。
今、自分にも孫ができ、
子どもももちろん愛おしい存在ですが、
この事故は、
母は、
「お父さんは、この出来事から子どもへの接し方が変わった。」
と話していました。
その言葉が今でも心に残っています。
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私はこの移住があったから生まれた
私は事故の頃、まだ生後3か月ほどでした。
もし両親が移住していなかったら。
もし違う人生を選んでいたら。
私は、この世に存在していなかったかもしれません。
そう思うと、不思議な気持ちになります。
人生は、

今は三人で見守ってくれている
母は17年前に亡くなりました。
父も92歳で天国へ旅立ちました。
母の最期には寄り添うことができましたが、
そのことは今でも心残りです。
けれど今は、父と母、そして優二兄の三人が天国で再会し、
子どもの頃、私は真剣に考えていました。
「天国で兄に会ったら、兄は4歳のままなのだろうか。」
幼い私なりに命について考えていた、大切な思い出です。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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